コロナで気付かされる日常性の価値

生まれて初めて在宅勤務と言うシステムの中に身を置いています。
運動し続ける経済のなかに組み込まれていると、
自分も自然にその中で走り続けているのだという当たり前のことに、
恐らく多くの人が今更ながらに気づき、
そして、自分が走らなくても何も変わらないように見える日常に、
自分が生きている意味っていったい何なのだろうと、
改めて困惑しているだろうと思います。

物を作ったり、売買したり、接客したりして生きている人たちは、
もっと切実な焦燥感を覚えていること間違いないですが、
三次産業に従事している人間にとっては、
ただ自分が毎日会社に行かなくなるだけで、
それでも世の中は何もなかったように動いているのを見ると、
全力疾走していたつもりの自分の姿を、ふと虚しく感じてしまったり。

でも、
今しかできないことをやろう、
今しか考えられないことを考えようと、
是非ひとりひとりが前向きな気持ちで日々を過ごして欲しいと願います。

アメリカや中国は、経済的なダメージを最小限にとどめるべく、
リスタートに向けて始動しているようです。
見切り発車のように見える国もあります。

かつて1929年の世界大恐慌のあと、
アメリカではニューディール政策なる経済復興政策がとられ、
またヨーロッパの戦勝国はブロック経済なる保護主義化を強めました。
いずれも自国が生き残るためにとった政策ですが、
結果的に世界恐慌は第二次世界大戦に繋がる引き金になったと言われています。

今回のコロナ禍のあとにも、
同様の国主導の経済復興策がとられることになるでしょう。
また、一方で他国に頼らなくても生きて行けるというマインドも強まるでしょう。

次の世界にとって何が正解であるのか、誰も知りません。
わからない。
でも今、私たちは考えなくてはならないと思います。
自分の頭で考えて、そして未来を選択する。
自分の意志として未来を築くという姿勢を持たなくてはなりません。
少なくとも、私はそうありたいと願っています。

コロナの力は強大でした。
一瞬にして全世界がひれ伏し、
家にこもって嵐が過ぎ去るのを待つしかできない人間の無力さを思い知らされました。

多くの人が命の危険というものを身近な現実の問題としてとらえ、
生きる、というシンプルな主題について考えたことでしょう。

一瞬で日常を奪い去るこの強大な「神の手」の前で、
非日常な贅沢とはいかに虚しいものであるか。
健康に生きることはいかに貴重なことであるか。
自分の一番足元にある日常性の価値について、
今、私たちは改めて考え直す時であろうと思います。

今日の話は序章。
お酒の話は、またおいおい書くことにします。

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