日本酒にみる木の文化と樽酒

 最近では木桶を使って醸造する日本酒メーカーがちらほら見られるようになってきました。

クギを遣わずに木桶を制作する技術や、竹を編んでその桶を締め付ける箍(たが)を作るのは、経験と勘が大切な伝統技術です。その技術を伝承する人が少なくなってきたことから、各地でそれを守ろうとする動きがみられます。

小豆島の醤油メーカー「ヤマロク醤油」の山本康夫さんは、2011年に「木桶職人復活プロジェクト」を立上げ、最後の1軒になってしまった桶屋さんの技術を伝承して後世につなげる職人を育成する活動を始められました。素晴らしい事業だと思います。

ヤマロク醤油のプロジェクトは多くの人々の共感を集め、木桶をキーにして冬に小豆島行われる「発酵文化サミット」と名付けられたワークショップには沢山の志高い人々が集まっていると聞きます。

日本酒造りは昔から木製の道具とともに歩んできました。

酒造期の酒蔵には職人が住み込み、様々な道具を制作したり直したりしていたといいます。

そんな伝統を守ろうとする大手の酒蔵がいます。灘の「剣菱」は2018年に「酒造道具木工所」を立上げ、自社で使う木製の暖気(だき)や甑(こしき)を作ったり直したりするインフラを整備しました。

また同じ灘の「菊正宗」は同社の主力商品のひとつである瓶詰樽酒の価値を伝えるための施設として2017年に「樽酒マイスターファクトリー」を開設しました。広々としたスペースで職人が技術を尽くす樽づくりのすべての工程を間近に見学することができる素晴らしい施設です。

全国の多くの酒蔵は、水源として山林を所有していることがあります。貴重な「水」を守るため、「山には決して手を付けるべからず」という家訓を聞いたことがあります。山と木が水を育み、その水で育てられた稲を原料として造られる日本酒は、まさに日本の国土そのものであるといえましょう。そして木製の様々な道具も、日本酒を造る大きな要素です。


さて、樽酒とは日本人なら誰でも知っている言葉ですが、現代の生活ではあまりそれを口にする機会はありません。結婚式や正月などの特別な式典で、運が良ければ飲めるもの。杉の良い香りがなんとも言えず魅力的です。

灘の酒が日本一の生産量を誇るようになったのは、「下り酒」と呼ばれた灘酒が江戸っ子に人気を集め、大量の酒が灘の港から千石船で江戸まで運ばれたからだと言われています。

ミネラル分を含んだ硬水で造られた力強い灘酒が、4斗樽で10日程度かけて江戸まで運ばれる間にほど良い樽香が酒に移り、ちょうど江戸っ子の口にぴったりの酒質に出来上がったそうです。

千石と言えば4斗樽2,500本という量ですから、そのころは本当に大量の樽が灘を中心とした地域で生産されていたことになります。

樽の香りがお酒にほど良くつくのに、どれくらいの期間が適当なのか。実はあまりわかっている人は多くないように思います。

結婚式で鏡開き用の酒が地方の酒蔵から送られてくる時は、空樽と瓶詰された酒が別々に送られ、結婚式の前日か当日の朝に酒を入れて下さいと説明されることが多いですし、あらかじめ樽に酒を入れて送られる場合も、ほんの数日という期間しか貯蔵されず、またできるだけ早く消費して欲しいという説明を聞きます。

木樽の香り自体は、酒を入れた瞬間にかなりのボリュームが酒に移ると言われていますから、さらに新しい升を使って酒を飲めば、十分に木の香りがついた日本酒を楽しむことができます。

しかし樽から酒に移るのは香りだけではなく、苦味や渋みなども含む様々な味わいも樽酒を構成する大切な要素です。樽酒を主力とする2社のメーカーにお聞きしたところ、1週間から3週間とのお答えを頂きました。

もちろん外気温によって香味のつき方は大きく異なるのため、夏の間は短く、冬は長く樽に貯蔵します。そういう意味では、メーカーが一番おいしいと思われるタイミングで瓶詰された商品は、恐らく最高な状態で飲める樽酒なのでしょうね。

灘酒が新しい樽に入れて出荷されていたのだとしたら、江戸で空いた何千、何万の空樽はどうしていたのでしょうか。

空樽が簡単にリサイクルできた時代ではありませんから、ほとんどの樽は江戸周辺で味噌や醤油ように転用されていたといいます。その場合も、灘の空樽は人気が高かったようです。

ブランド信仰というのは、江戸の時代からあったのですね。

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