コミュニケーションとしての日本酒

仕事柄、さまざまな外国の方と日本酒の話をする機会があります。
私が接するのは日本酒や日本の文化に興味を持っておられる方が多いので、
少なからずフィルターのかかった方々ではあると思いますが、
そのなかで感じるのは、
日本という国や、日本の文化というものに、
リスペクトを抱いている人がとても多いという事実です。
たとえフィルターがかかっていようが、
そのように思ってくれている方が沢山いるのだということだけで、
未来はあるなぁと思います。
それが人間というもの。

日本人・外国人を問わず、
誰かとお話をするとき、
コミュニケーションを成立させるためには、
なにか共通の認識が必要です。
それは、政治・経済かもしれないし、
アイドルかもしれないし、
猥談かもしれません。
自分の体験と認識から言葉になることを
他人と共有するのがコミュニケーションです。

私はこのコミュニケーションというものが、
とても素敵だと思っています。
自分とはまったく別の人格と経験を持った方々と
時間と場所と考えを共有し、
時には反発することもあるかもしれませんが、
とても楽しい、新しい経験を積み上げることもできます。

その相手が外国人であると、
喜びはさらに大きいわけで、
新しいことを知る喜びと
受け入れてもらえる喜びの両方を
とてもとても感じることができます。
外国に「はまる」人の気持ちって、
こんなところにあるのではないでしょうか。

日本酒は、
そんなコミュニケーションを成立させる小道具として、
とても優秀・有効なものです。
飲んで良し
語って良し。
飲むと、
さらに共有感と理解度が高まるのですから
これはすごいツールです。

大昔から、
酒は「気ちがい水」と言われながらも
そうして人と人を繋いできたのでしょう。
それぞれの国にそんな歴史があるはずです。
別に日本酒でなくてはいけないものではありません。
でも、折角日本人に生まれたのですから、
自分の血に流れている「米」のDNAを感じて欲しいと思います。

これって、まったく酒飲みの自己弁護ですね。


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